被災地のこれから

「忘れないでください」という声にどう応えるか
― 被災地支援のこれから ―  

                                             吉松英美

2011年3月11日。この日、東北地方は朝から雪が降っていた。
  午後2時46分。大地がぐらぐらっと揺れた。間もなく津波警報が発令された。海岸から数百メートルの所にある宮城県山元町のふじ幼稚園では、先生たちが園児達を通園バスに乗せて高台へ避難させようとした。しかし、バスが動き出すより一瞬速く津波が襲い、バスは数百メートル押し流され、とある農家の庭先で止まった。中曽先生は園児達を抱えて農家の二階へ運んだ。運び終えたところで今度は自分が倒れ、そのまま息を引き取った。低体温症。濁流に腰まで浸っての救援作業がいつしか彼女から体温を奪っていた。
 マグニチュード9.0。死者15,881人、行方不明2,668人。 そのほとんどが溺死であった事実が、この震災の悲惨さを物語る。
 震災後避難生活をしている人は、約31万5千人。そのうち15万人が福島第一原発の事故による避難者である。(今年2月現在、復興庁調べ) 被災地域を結ぶ海岸線は500キロを超える。地震と津波、そして原発事故の複合災害である。

思いがけず釜石でボランティアに

わたしが岩手県の釜石市へ行ったのは昨年4月の連休のことである。釜石周辺の被災状況や復興計画の調査が目的であった。
 ところがある晩、泊まっていた支援センターの責任者から、仮設住宅での俳句教室の講師を頼まれた。俳句は好きであるが、教えたことはない。仕方なく引き受けたが、もとより一回限りのつもりであった。それがほぼ毎月出かける仕儀となった。
 釜石は東京から600キロ。車で行くと10時間かかる。明治以来、製鉄の町として発達した企業城下町である。その最盛期は昭和40年前後で、人口は10万人近くにまで膨らんだ。 街は活況を呈し、「東北の上海」といわれた。それが製鉄産業の近代化と合理化に伴い、千葉県の君津市、愛知県の東海市をはじめ各地に最新鋭の工場が作られ、釜石は出番を失った。震災前には人口も4万人にまで落ち込んだ。震災で市の人口は3千人近く減少した。今回の震災による死者は888人、行方不明者152人。市内66か所に仮設住宅3,200戸が建てられ、およそ6千人が入居した。                

埋めようのない“喪失感”

すべてが流されてしまった場所に立つと、家族や身内、友人を奪われ、土地や家屋を流    され、職を失った人々の悲しみ、喪失感、不条理や無常観は想像するに余りある。
 去年の春、ある仮設住宅で被災者たちと花見をした。その時見たごみの集積場には、空き缶・空き瓶が大量に捨ててあった。アルコールの助けを借りなければ一日が過ぎないのであろう。心の病に悩む人や生き残ったことへの自責の念に苦しむ人も少なくないという。
  震災から2カ月後の5月、宗教者や医師たちによる講演会が仙台市で開かれた。ある医師は「被災した患者や遺族が求めることに、医師は科学では対処しきれない。あの世のことを語れる人でないとだめだと痛感した。後ろで宗教者に支えてもらいたい。」と訴えた。
作家の池澤夏樹氏は「唐突に死んでしまった人は自分の死をどう納得するのか気になっていた。準備ができていない死、不慮の死をどう受け入れるか。そこから始まるものがある。死を納得するための工夫が要る。」と語っている。

心を開く「俳句教室」

その時、はじめて仮設住宅の中に入った。集会室へ行くと、女性が4人座っていた。
 俳句という言葉は知っていても、作ったことはない。うまく作ろうと思わず、五七五を楽しむことを勧めた。するとどうだろう、回を重ねるうちに面白いといい出した。そしてだんだん形が出来て、俳句らしくなってきた。
 今年4月、初めて参加した82歳の女性は、周りから「俳句なんかやって何になるの」といわれ、遠慮していたが、今日は思い切って出てきましたといった。

名を呼べば涙あふるるふきのとう

 戻らぬ人への思いを込めた句をホワイトボードに書きながら彼女は感極まって嗚咽した。そこにいた参加者もみな涙した。帰り際に「今日は参加してよかった」と彼女はいった。                    

被災地を歩く

今回の災害は、規模が大きすぎてその全貌はつかみにくい。わたしはこれまでに岩手県から福島県まで、原発事故による立ち入り禁止区域を除く地域を見てきた。
 海沿いの国道を走ると、わずかな高低差が明暗を分けている。東北大学災害科学国際研究所の平川 新所長は「宿場や城下町も津波や山崩れの被害を受けにくい立地が選ばれている。過去の災害を調べることで将来の備えにつながる「災害知」が発掘できる」という。
 津波で流された所は、建物の土台だけ残して雑草が生い茂り、がれきの山が出来ている。残っているのは、病院、学校、役場、集合住宅など鉄筋の建物の残骸である。人の姿は工                   事関係者以外はない。車の残骸が積み上げてある。どうやったらこんなにぺしゃんこにつぶせるかと思うほどつぶれている。中には消防自動車もある。車体には「検査済み」と書いてある。車内に人がいないかを調べたしるしである。
 “奇跡の一本松”の陸前高田の市役所は最上階の3階まで津波をかぶり、庁舎内は備品や書類が散乱し、足の踏み場もなかった。一階には津波に運ばれてきた乗用車が2 台無残                   な姿をさらしていた。家も電柱も線路も駅もすべてが流された。
日本は有数の地震国である。特に東北の青森、岩手、宮城の三県にまたがる太平洋側の三陸海岸は「貞観の三陸沖地震」(869年)以来、地震と津波に幾度となく見舞われた歴史                  を持つ。その悲惨な記録は、たとえば明治以来の大地震と津波の被害を克明に調べた吉村 昭の『三陸海岸 大津波』(文春文庫)に詳しい。それは決して過去の話ではないのである。
地震と津波に加えて今回は原発事故が重なった。福島第一原発から西へ100キロ離れた福島県の郡山と会津若松を訪れた。両地域とも飛来した放射線量が高く、子供への影響を心配して他所へ避難した家族がたくさんいる。そのため園児が減り、今後の経営が心配だと、ある幼稚園長は顔を曇らせた。

復興加速年にかける

被災地へ行くたびに「あれから3年目なのに、まだこんな状態?」と一瞬思う。
ブルドーザー、パワーシャベル、ダンプカーなど重機類が忙しく動き回り、作業員が沢山いるかと思うと、重機も作業員の姿もまばらで閑散としているところもある。がれきを積み上げたままのところもある。復興工事の優先順位差がはっきり出てきた。
町づくりの専門家、建設業者や重機、作業員が不足し、用地の取得も難航している。
被災地では今年を“復興加速年”と位置付け、工事のスピードアップに躍起となっている。岩手、宮城、福島各県の予算はいずれも1兆円を超えた。震災前の2倍である。
 5月には復興公営住宅の第一期分が完成し、抽選で当選した人たちが入居し始めた。
 今年はどこでも桜が話題になった。花見をする仮設住宅も昨年より多かった。震災の年にも桜は咲いたはずであるが、ほとんどの人が記憶がないという。桜の下でお弁当を広げる人の表情にも明るさが出てきた。明らかに状況が変わってきた。

「絆」から「忘れないでください」へ

 震災直後は「絆」ということがよくいわれた。しかし、がれきの受け入れを拒否する声が上がり、いまや「絆」は新聞やテレビからも消えた。時間の経過とともに人々の記憶が薄らぎ、被災地への関心が遠のいてゆく。ボランティアに出掛ける人も少なくなってきた。
 震災を、数値化された被害の大きさからのみ見ている限り、いずれは“他所の出来事”                となる。数値化されないものへの視点を持たないと、自分自身の問題にはならない。作家の柳田邦男氏も「原発事故で30万人が避難した。(しかし)そういう数字から本質は見えてきません。一人ひとりの生身の人間の悲惨ととらえ直さなければ。」といっている。
 被災者の一人ひとりが「生きていてよかった」と思えるような喜びや生きがい、希望をどのようにしたら持てるのかを一緒に考えることが求められる。
 被災者たちは、このまま自分たちが忘れられていくのではないかという不安を持っている。この間もある人が、わたしたちが東京へ帰る前日に「お土産に」といって土地の銘菓をくれた。そこには名前の横に「忘れないでください」と書いてあった。わたしはしばらくの間、包みをそのままにしておいた。
それにしてもわたしは、これまで「私」を離れて、自分の生き方を考えたことがあっただろうか。自問する日々である。           

 吉松英美(よしまつひでみ)
 NHK元総務局長、(財)日本放送教育協会元理事長。現在は立教女学院評議員。

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